『創造性を歩く』に寄せられた感想のご紹介です。
01〜07(順不同)
01: 実のところほんとうにヤバい!?本なのだ!
山川 英毅 (ボーカリスト/作曲)
創造性と無意識をテーマにした彼のアート&エッセイブック 「創造性を歩く」は、本当に深く、その言葉には内面、霊性への探求を真摯に行っている人の丁寧で熱意に満ちた光のパワーが込められている!実のところほんとうにヤバい!?本なのだ!
自分の内に深く潜行して出会った言葉とイメージの実際の手書きの写真が掲載されており、これが理解と感知の圧倒的な手がかりになっている。そして何とその手書きの本物の絵とメモをストットさんの自宅で見せていただいたのだが、これが圧倒的な体験で、手書きの詩の紙面から静謐な空間が立ち上ってきた!
ストットさんはこの本で自分自身のアーティスト性を示そうとするのではなく、すべての人が同じような真摯な試みによって同じような深い体験が得られる可能性の例証としてご自分の試みを提示している。
これによって、表現や作品としての体裁作りに寄せることで切り捨てられる可能性のあるリアルな自分自身の「創造性」の根っことの出会い体験が、より深く透過的にドキュメントされているのだ。私はリアルな彼の言葉の息遣いと閃きの細部にも理解のための多くのてがかりを感じ、大変インスパイアされた。
02: 宙を歩む実践の書 -変化と再生のガイドブック-
今井 健登 (メーカー勤務/気候市民会議主催)
背負うもよし、抱腹するもよし
落ちることが無い実践の書
著者の体験から想像が膨らみ
読者の生活は自ずから美しいものに帰着する
手放したものは新しく散り
残渣は古く漂う
宙の旅の水先案内書
03: これは内省版『深夜特急』だ
平山 創己 (デザイナー)
自分の内面を旅し、自分を自由にし、自分も知らない自分を発見するのが本書である
04: 箱庭という種
伴田 良輔 (映画監督・美術家)
表現は無数の箱庭であり、そこに種さえあればそれはどんな箱庭でも良いのだ、というようなフレーズに一瞬にして共感しました。すべてある種の箱庭ですね。その箱庭に鋳型はない。自分の箱庭から自分の鋳型を見つける喜びの中から、自然に世界の鋳型にたどり着けるようにぼくも感じています。学校の教育は自分の鋳型を放棄させることから始まるので、とても貧しいものしか産みません。創造の震えるような喜びがあらかじめ封じ込められてしまう。本に登場する絵の中の原型的な自由さには大切なものがあると思います。世界を色や線やリズムでまずは知覚し感じることを通して創造することのプロセスを構築しようとした人たち(少ないですが)とつながるものを感じます。シュタイナーのことをふと思いました。シュタイナーは教育理論として取り入れられる中で自由さが失われるというパラドックスに陥ったようにも思いますが、どんな箱庭でも良いのだ、その種や核から内発してくるものを喜びと共に掴むという自由さの方に、ぼくも与します。
喜びの種は日常のどこにでもあるんです。苦しみの裏側にさえ。ぼくの場合は苦しさと、拮抗していますが絶対に喜びに転じるという確信もあります(笑)。創作がその転換の「場」になる。場を探す、空間を探す、それを毎日している。場をしつらえる。これは自分の箱庭を場の単位で作っていくことなんでしようね。空間が見つかっていくこと、それがぼくの映画になっていくんだと思います。
05: 読む人を創造的な状態へといざなう本
河城 瑞季 (大学院生)
『創造性を歩く』、とても面白く拝読しました。全体を通して、キーワード・メモにある「1つ上の次元」が鍵になっているような気がしました。デフォルトの次元ではあれかこれかの排中律に陥らざるを得ないものが、別の次元では共存し相互に作用し合うようになる、その最たるものが〈鹿の話〉に出てくる狩猟という営みの生と死の感応であり、あるいは箱庭を介した象徴との戯れなのだろうか、と思いました。そして、いわば個の次元と場の次元を行き来するところに、二重化した主体が強度のある「私」として生成されていくのだとすれば、そのようなシャーマン的ともいうべき感性は創造の要であるように思います。
もう一点、『創造性を歩く』が稀有な本であるのは、読む人を創造的な状態へといざなう力を持っているからではないかと思います。私がまだ読みこなせていない部分は多いと思いますが、頭の中を漠然と漂っていたものがはっきりと形を持ち始める瞬間もあり、紙上の絵や写真を見て言葉を受け取ることによって、まさに「世界の普遍性」へと接続されていくような、心躍る読書体験でした。ありがとうございました! これからも、この本が自分の人生を見出そうとしている人々のもとに届きますように。
06: 著者と一緒に内面世界を散歩する
須田 将太朗 (大学生/カナダ)
この本では、夢や無意識、美学といったテーマを中心に、著者が自身の創作物(詩、小説、美学カードなど)を紹介し、それらに対する解釈や創作の背景を自ら振り返ります。「創造性を歩く」というタイトルがまさに!という感じ。本にときどき差し込まれる著者の絵や写真が、読者と著者の視点を共有するので、それにはまるで一緒に散歩をしているかのような感覚を覚えます。
著者は自分自身の内面を深く見つめ、「そこにどんな普遍的なテーマがあるのか?」という探究を見せてくれます。その過程で僕は、「自分の中にある自分を超えた無意識の世界」というものを改めて実感し、不思議な気持ちになりました。目に見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎ、それをどうにか伝えようとする著者に脱帽です!夢や無意識、美学、創作といったテーマに興味のある方にはぜひおすすめします。
07: 読みながら自分の人生と対話した
齊藤 力 (カンボジア教育支援NPO代表)
印象に残った部分とコメント
【前書き p.10】
山口周さんの本に似てると思った。物質的に成熟しきり、ビジネスの役目が終わった日本は、衝動的な感情に任せ、高原社会に向かっていく。
【赤の絵 p.20】
悪夢の話。自分も夢というか、真っ暗な夜の部屋で幻想を見せられていた感覚を思い出した。寝室で、影が大きくなって、心の中を襲ってくる感覚。扉の方にいるため、開けにいけない。なんとか自分の精神を使い切って部屋を出て、母親に泣きつく、ということをしていたのが記憶にある、多分3歳ぐらい。
【鹿の話 p.31】
“夜中に世界の何者かが、自分の頭と手を媒介して書いてる心地”→わかる。自分も、夜中に事業開発で書き殴っていくとき、そんな感覚。その感覚の自分を呼び起こすのは大変だし、その時の自分はもう世の中にいない。昼間に振り返ると、そのとき思い浮かんだことを事業として人を動かしながらやるのは、再現性が低かったりする、アートなんだなって感じる時があったりする。
【美的衝撃 p.34】
美的衝撃にふさわしいのかわからないが、「勉強したくてもやりたくてもできない」という強烈な違和感と、1年後、自分の身体に走ったかみなりを思い出した。
【フロー体験 p.35】
体験の種類は違っても、体験の最中に感じている味、雰囲気、感覚、質感が似ているの分かる。野球のフロー状態と、深夜の事業作り。バッティングセンターで意識的にその時間を設けるようにしている。
【美的衝撃 p.39】
写真に残っていると、記憶に残りやすいので、それが後付けで美的衝撃になったりもするのかな?とふと思った。自分でいうと、初センター前ヒットや、身体に雷が落ちた日など。
【社会的スキルの習得を優先事項の一位に常に持ってくることは避けた方が良い p.68】
今、その間で闘っている感覚。
【海の詩を生み出した背景 p.92】
アニメや絵、動画で観てみたいなと思った。
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